2013 「オロチの正体展〜鉄の物語」 に寄せて


加計隅屋鉄山絵巻 (広島県重要文化財)

江戸後期に、国内でも最大手の鉄山師に成長した加計隅屋が残した絵巻物で、
上巻(天地25cm、長さ6.4m)下巻(長さ8.5m)からなる。

たたら製鉄の作業工程として、
森林伐採、炭焼、たたら操業、ヒ出し、大鍛冶、勘定場、各種道具を写生しているが、
何処のたたら場を描いたのかは特定されていない。

作者の佐々木古仙斎は、江戸末期1794年生まれで、
芸北大暮の鍛冶屋の出とされる。

草稿本(下絵)として描かれたものだが、
それゆえの伸びやかな筆さばき、文章、労働者の所作の正確さへの評価が高い。

本画は原爆で焼失したものの、
日本独自のたたら製鉄の学術的な資料として、世界的にも大変貴重な絵画である。

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1・操業風景

高殿(たたら吹屋)内部の暑くて過酷な操業風景。

マサ土で作った炉の中に、上から砂鉄と木炭を交互に投入し、
鞴からの送風によって激しく燃えているところ。

左右に設置された天秤鞴は大型であり、
番子が交代で踏むところが、カワリバンコの語源となる。

炉の下部から流れ出ているのが銑鉄(ズク)である。

村下は統括責任者であり、
炭を準備しているスミタキ、背後に金屋子が祀られている。

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2・ヒ(ケラ)出し風景

操業を続けると炉のマサ土が融けて、だんだんと痩せてくる。

最後に炉を破壊したあと、中心部に生成されたヒを野外に引き出し、
鉄池に落として冷やしているところ。

池の水が沸騰するほどの熱量である。

屋根の排煙口や防火用水や梯子、ヒの下に敷くコロバシ木や鎖、
鉄屑を拾う子女、飼犬がいる。

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3・大鍛冶風景

炉から出された銑鉄やヒを、割りながら選別したあと、
再加熱して、叩き鍛え、脱炭し、用途に合わせて品質を整えているところ。

リーダーの大工、右利き左利きを交えた4名の手子のチームワークが重要であり、
鉄棒にして出荷される。

加計まで馬で運ばれ、積出し港から川舟で太田川を下り、
さらに、瀬戸内海を大坂へと渡り、「山県割鉄」として全国に流通した。

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砂鉄採取(カンナ流し)

砂鉄は、中国山地一帯のマサ土に約3%含有し、
水勢と比重を利用しながら選別したもので、大量の残土が川に流された。

それは、棚田や、広島デルタの生成と密接な関係がある。

太田川水系での砂鉄採取は、
洪水による氾濫防止のために、広島城の築城に合せて全面禁止された。

のち、砂鉄は石見などの山陰側から馬で運ばれ、
砂鉄の採取と運搬は、農家の農閑期の副業であった。

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森林共生

1回の操業は3〜4昼夜の連続操業であり、
約15tの砂鉄と、約15tの木炭(1.5ha=サッカーコート2面分の森林)を消費し、
約3〜4tの鉄が生まれた。

森林の伐採は激しいものであったが、
一部を残したり、植林したり、10年単位でたたら場を移動したりと、保護に努めた。

また、たたら場には御神木があり、祈りの対象であった。

諸外国では、森林を枯渇させた事例が多く、製鉄は環境破壊としてみられるが、
実は、樹木が成長する過程で、多くの酸素を排出する。

中国山地では、循環的なエネルギー活用を行っていた。

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安芸十り

広島は、日本でも最古級の弥生後期〜古墳時代の製鉄遺跡が発見されている。
(三原の小丸遺跡、千代田の京野遺跡、世羅のカナクロ谷遺跡)

中世には、かなりの数のたたら場があったが、
すでに地面からの湿気を防ぐ工夫があり、技術革新は先進的であった。

江戸期には、ジャストインによる材料供給、昼夜交代制、海上運搬など、
すでに現代的な企業経営がされていた。

たたら場の労働者は3〜4百人とされるが、
炭焼、砂鉄採取、運搬などを合せると数千人規模の産業であった。

明治初頭の加計隅屋の廃業で、太田川水系のたたら製鉄は姿を消したが、
原因は、安価な西洋鉄の大量流入や、良質な砂鉄の枯渇とされている。

のち、西洋の技術を導入した角炉が生まれ、
山中に放棄されていた鉄滓(カナクソ)を掘り出して、再利用した。
(大暮の山県製鉄、加計の帝国製鉄など)

角炉とは、耐火煉瓦による炉や煙突、水力送風による連続操業であるが、
鉄滓(砂鉄)と木炭を原料とするため、和鉄の特性を有した。

広島では「安芸十り」といわれる鉄製品(鋳物、針、ヤスリなど)が生まれ、
やがて、造船や自動車産業へと発展した。

たたら製鉄から派生したDNAは、広島の風土に深く根ざしている。

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湯立神楽 (広島県無形民俗文化財)

芸北神楽は出雲系であるが、湯立神楽は伊勢系であり、今日まで継承されている。

加計での発祥は不明だが、江戸期を通じて大正元年まで行われ、
中断のち昭和33年に復興した。

鉄の大釜で湯を沸かす浄めの神事に始まり、幣、鈴、剣を手にして舞い続け、
湯が次第に沸き立ってゆく様は、加持祈祷(シャーマニズム)を彷彿とさせる。

奉納記帳によると、加計隅屋が深く関っていた。

加計長尾神社にて、毎年10月に奉納されている。

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吉水園 (広島県名勝)

鉄山経営者の加計隅屋が天明元年(1781)に造った庭園。

吉水亭、金屋子神社、松林庵薬師堂の建物と、回遊庭園からなり、
のちに、広島の縮景園を手がけた、京都の清水七朗右ヱ門が改修を重ねた。

吉水亭の高座から眺める山々や、太田川の借景が素晴らしく、
その巧みな意匠が、賞賛されるところである。

天然記念物のモリアオガエルが生息している。

毎年、6月と11月に一般公開されている。

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今日的な【たたら製鉄】の意義

● 1500年の歴史をもつ、多様な地域性と、人類の足跡としての【物語性】
● 大量の木炭を消費した循環エネルギーとしての【森林共生】
● 産業遺産=日本の急激な近代化を支えた【スピリット】
● エコツーリズムとしての多様な取り組み、現在進行形の【広域連携】
● 市民参加型のフィールドワークショップによる【教育力】

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神楽と鉄の物語

私は安芸太田町加計に育ち、若い頃に、倉敷、沖縄と陶芸の修行の旅を重ね、
今は風炎窯という陶芸工房を営んでいます。

たたら製鉄を知ったのは「もののけ姫」がヒットした頃・・・
「加計隅屋鉄山絵巻」を知ったのは、山陰のフォーラムに参加してから・・・

地元に眠る宝物を、外から教わったように思う。

町並み10年、景観100年、風土1000年と申しますが、
広島の製鉄の歴史は、風土に埋もれて、地元の人にも忘れ去られています。

かつて、たたら製鉄が盛んであった地域と、神楽が盛んな地域は、不思議と重なっており、
広島の芸北は、特に神楽が盛んなところです。

大和朝廷からの使者が神となり、製鉄民が鬼やオロチとなり、
その覇権争いが神話のテーマかもしれません。

両者は日本の誕生に深く関っていたのでしょう。

豊かな森林に抱かれた西中国山地は、日本でも有数のたたら製鉄地帯であり、
そのDNAは、今も「広島のものつくり産業」に息づいています。

今回の展示会は、NPO広島神楽芸術研究所と、関係者の長年のご努力と、
加計隅屋鉄山絵巻のパネル製作を許してくださった加計正弘様のご好意によるものです。

今回の展示会によって、新たな物語が生まれる気がしてなりません。



                               文責 太田川アクティブアーチ 林 俊一