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川・森・文化・交流センター1F 水の文化館
鉄山絵巻、パネル展示、プレゼンテーション、温井ダム資料、他





加計隅屋鉄山絵巻は、江戸時代の終わり頃の「たたら製鉄」が一番盛んな頃に描かれた貴重な資料です。工場内の風景ですが、高温と煙のために柱が黒く煤けています。
マサ土の粘土を固めて作った「炉」が中央にあり、高温の炎が上り、上から交互に、砂鉄と木炭を投げ入れているところです。
炉の両側にあるのは「天秤フイゴ」という人力の送風機で、下の竹パイプを通って炉の底に風を送っています。
やがて、炉の中で鉄が成長し、一部が炉の下から流れ出ます。炉の中の鉄が大きくなり、炉が痩せてくると、最後には叩き壊します。
天秤フイゴには断熱壁があり、これを踏む人を番子といい、「カワリバンコ」という言葉はここから生まれました。





工場外の風景で、炉を壊したあとから灼熱の鉄塊を引き出しているところです。
大人数でクサリで引っ張りながら、手前の池に転がり落として冷やそうとしています。
池の水が燃えているように見えますが、鉄は1000℃以上の高温なので、すぐにぐらぐらと沸騰します。
飛び散った鉄を拾う子供や女性の姿も見えます。
工場の屋根には、排煙装置、防火用水、ハシゴがあります。





たたら製鉄は、材料にムラがあり、操業時の天候もあって、製品が均一になりません。
鉄をふたたび加熱し、叩く、延ばす、重ねるを繰り返しながら整える作業を「大鍛冶」といい、鉄の量も半分以下に減ります。
加計隅屋鉄山絵巻を描いた「佐々木古仙斎」は、この大鍛冶の労働者の家に生まれ、画家として一生を終えました。
たたら製鉄は、四昼夜も休むことなく操業され、その1回を一夜(ひとよ)と言います。
そのために、山から約70トンものマサ土を掘って、流して、砂鉄を選別し、約1.2ヘクタールの森林を伐採し木炭にしました。(マツダスタジアムと同じ広さ)






中国山地のマサ土には2〜3%の砂鉄が含まれます。
山を削った土砂を谷川に流すと底に砂鉄が溜まるので、それを選別して集めます。(土と鉄の比重の違いを利用)
また、大量の土砂が流れるので、川が濁ったり、田んぼや川辺に土砂が溜まりました。
そのため冬の期間だけの仕事で、この作業を「かんな流し」といい、場所によって「棚田」や「デルタ」が形成されました。
太田川河口に発展した広島デルタの堆積にも大きく関わっています。





広島では、江戸時代の始めに「広島城」を築城するにあたり、土砂で堀が埋まるとの理由で、太田川水系の砂鉄採取を全面禁止しました。
以後、加計隅屋の砂鉄供給は馬を使って、海の見える「井野の棚田」から運ばれました。
西中国山地の山深い場所で、豊かな広葉樹から得た木炭を燃やし「たたら製鉄」が営まれていました。
製品は加計に集められ、太田川の川舟で下り、瀬戸内海を渡り、大坂から全国に供給されていました。





この古い写真は昭和初期のものでしょうか?
今の商店街があるところに大きな蔵が並び、丁川には川舟が停泊していて、鉄・炭・紙・木材などの物資を広島に向けて運んでいました。
帰りは海の産物などを積んで、綱を引きながら戻り、月ヶ瀬の近くで「市」が開かれていました。
加計は山と海の産物、人と人の交流が盛んな町でした。





この絵は江戸後期の広島藩の絵師「岡岷山」が描いたものです。
この場所は、安野の「花の駅公園」の近くの「船場」です。
太田川のなかでも、急流であり、岩の多い場所でした。
絵師の日記によると、船頭の櫂さばきは命がけであり、あまりに怖くて、大きく揺れるので気分が悪くなったとか。





太田川下流の可部や広島では、鉄を使ったモノツクリが盛んになりました。
広島には「安芸十り」という言葉があり、語尾に「り」のつく道具がたくさん作られていました。
イカリ、クサリ、ノコギリ、マサカリ、ハリ、オモリ、ヤスリなど。モノツクリのための道具が多く、それが現在の広島の産業、鋳物、針、自動車、造船などに繋がっています。







この写真は「川・森・文化・交流センター」にあった「帝国製鉄加計工場」で、大正7年から昭和33年まで操業していました。
当初は不調で休業、昭和13年に復活、主な原料はカナクソと木炭で、炉は耐火煉瓦に、フイゴは水車から電力(加計発電所)に変わりました。
戦況に振り回された波乱の経営でしたが、戦後、高品質な「木炭銑」は、八幡製鉄の特殊鋼になり、インドからの鉄鉱石も試験的に使われ、その技術は「マラヤワタ」という途上国支援に繋がってゆきました。(マレーシア)





温井ダムの龍姫湖の湖底に沈んだ江の渕(えのふち)には、可愛(えの)神社があり「スサノオ」が祀られていました。
日本書紀によると高天原を追われたスサノオは「安芸の国・可愛」に立ち寄り、出雲に向かったという記述があります。
古代朝鮮語でスサとは鉄の意味であり、江戸時代の芸藩通志(広島藩編纂の歴史書)には、可愛(えの)は温井ではないかと書かれています。







温井ダム直下の鬼後は、ホタルが乱舞するスポットとして注目されています。
ホタルが生き易い環境には、地質に含まれる「鉄」と「森林」が大きく関係しています。
急傾斜な山は表面積が広く、広葉樹のフルボ酸と地下水と鉄が反応することで、植物の光合成が活発です。
瀬戸内の豊かな漁場には、中国山地の森林と鉄と河川が関係していて、広島カキの鉄分と広葉樹の連鎖が解明されています。





温井ダムには、ホンモノの「鉄の歴史」が眠っています。
湖畔の導水管モニュメントを「愛の呪文アーチリング」「聖地」として活用する取り組みが始まりました。
「龍姫伝説」「鉄の道」「安芸十り」「ダムと自然」がテーマで、紙芝居を活用したフィールドワークを実践しています。
ダム周辺にあるマジカルポイント(反響部)を探して「愛の呪文」を唱えましょう。






西中国山地のたたら製鉄には「日本書紀」に由来する伝説があります。
推論として、スサノオが出雲に向かう途中で立寄った「可愛(えの)」は、
現在の安芸太田町加計の温井(温井ダム)ではないかとの指摘が、江戸時代末期の「芸藩通志」にあります。
また、実行委員会では地元の小学校と協力して、温井の民話を題材とした「紙芝居・炭焼きと女房」を制作しました。
美しい女性に化けたオロチが、旅の途中で出会った貧しい炭焼き男と結婚し、小判(鉄?)の作り方を伝えました。
やがて、金持ちになった炭焼き男が夫婦の約束を破ったことで、悲しく別れ、オロチは「江の淵」に飛び込み「出雲」に向かったというストーリーです。
さて事実として、2013年に角田先生が出版された「たたら吹製鉄の成立と展開」では、中世の毛利の覇権と重なるように、地下構造などの革新的な技術が、安芸から周辺に伝わっていったとの調査報告があります。
また、北広島町の壬生神社には、安来の金屋子神社の「シラサギ伝説(たたら伝承)」よりもさらに古い似た話が、中世の古文書にあります。
広島は調査があまりされていないだけで、もしかしたら、出雲から発信されている「たたら製鉄の常識」が、覆るような歴史が眠っていると指摘されています。
江戸時代、広島のたたら製鉄は、石見と深く関わりながら発展しました。
広島デルタは、主に、江戸時代に造成された埋め立て地ですが、堆積は中世以前の砂鉄残土の流出によるものです。
広島城の築城のち、堀が埋まるとの理由で、太田川水系での砂鉄採取は厳しく禁止されました。
これを期に、安芸から山陰に移った鉄山師もあります。
石見から砂鉄を運び、西中国山地の木炭で炎を上げ、鍛錬した製品(主に銑鉄)は、太田川を川舟で下り、広島から大坂、全国へと供給されました。
広島城下では「鉄」に由来する道具作りが盛んで「安芸十り」と言われました。ハリ、ヤスリ、キリ、ノコギリ、イカリなど・・ それらは、鋳物(マンホール、ホーロー風呂、釜)、広島針、自動車、造船など、現代の広島の産業に成長しています。
自らの技術を革新してゆく風土は、現代の広島のモノツクリ産業のスピリッツに引き継がれています。
石見では、石見銀山との関係で、浜田藩と津和野藩の領地が飛び地になっていました。
やがて、石見の鉄山師は、木炭を求めて「砂鉄の無い長州」に進出していったのです。
広島では「加計隅屋」が最大手の鉄山師に成長しました。
国道191号線に沿って、阿武の白須たたら(長州藩絵師)と、加計隅屋鉄山(大鍛冶労働者)の二つの絵巻が残るのは、何かの因縁でしょうか。
幕末から明治、たたら製鉄は斜陽しながら、民間、藩、県、国に経営を移しながら、保護され、延命されました。
近代化に向けた国策として、三次に「官営広島鉄山」が設置され、海外からの技術が導入されました。
やがて、民間の「帝国製鉄」が、鉄滓(カナクソ)と木炭によるリサイクル生産を軌道に乗せると、八幡製鉄や軍需産業に向けて、高品質な「木炭銑」を供給しました。
海外からの輸入鉄が増加しても、昭和30年代まで作り続けたのです。
その技術は「軍都広島」の悲しい被爆体験を乗り越えて、高度成長期には発展途上国への支援策(マラヤワタ)として、マレーシアに製鉄業と製炭業を育成しました。
余談になりますが、萩が発祥とされる「蒸気まんじゅう(蒸気船のカタチ)」が、安芸太田町では、かなり古くから、祭り(神楽)の夜店の風物詩になっており、現在のイベントでも焼かれています。
最も古いと思われる「炭火用の鋳型」が残るのは、阿武町と安芸太田町だけです。照合すると全く同じもので、大正時代以降の100年程度の歴史でしょうか。
芸州(広島・可部)で作られた鋳物の風呂(五右衛門風呂)が「長州風呂」という名前で全国に流通したり、帝国製鉄の資本が萩であったり、耐火煉瓦の製造が阿武であったりしました。
広島のたたら製鉄の経営や歴史を、広域的な視点と時系列で整理してみると、現代の企業や自治体が取り組んでいる「マーケティング」「ブランドストーリー」と重って見えます。
「神話」「神楽」なども、時の権力者による同じような行為ではなかったでしょうか。
利益にならなくても「歴史文化」を大切にする企業や自治体は多いですね。
広島の場合、古代の伝説、中世の覇権、近世の広域経営、近代の木炭銑、現代のモノツクリ産業への「展開」といった視点で見つめ直すべきでしょう。
そうそう、悲しく別れたオロチと炭焼き男ですが、最新作「紙芝居・愛の呪文」では、狭かった江の淵が、温井ダムの完成によって沈んで広くなり、オロチは出雲から温井に戻って来ています。
龍姫湖(ダム湖)の見える「龍姫神社」に祀られていますので、「愛の呪文」を口ずさみがら安芸太田町を旅してみませんか?
河原に降りると、風化して丸くなった鉄滓(カナメちゃん)の「御守」が、見つかりますよ。