釜いり茶みっと・BOTECAFE

 グリーンが美しい緑茶や煎茶や抹茶は、江戸中期に宇治で開発され、明治になって一般に広がりました。それ以前のこと、加計では、寒暖差による太田川の朝霧が好条件となり、鎌倉期から「番茶」が作られていました。江戸期には広島藩へ献上されており、この頃には「釜炒り茶」の製法が定着していました。今でも僅かに作られていますが、農家で作る漬物の味が各家庭で違うように、製法や味も微妙に違います。均一的な大量生産という時代の流れに、個性的な味が消えようとしています。風炎窯の体験プログラムでは、茶畑・山茶の見学、地元の和菓子を食べる、釜炒り茶やブラック珈琲を茶せんで泡立てながら楽しむBOTECAFEを実施しています。

【釜炒り茶・干し茶・ぼて珈琲・ぼて茶筅・加計吉水饅頭・ギオンボウズ】

【陶芸体験・粘土シート成形・ぼて茶碗作り】

【茶畑・釜炒り茶・茶小屋・ほいろ】

【修学旅行民泊・干し茶体験】

【琉球古典焼(陶器)・沖縄ブクブクー茶体験】

【民芸運動との関連・引用】
 出雲の郷土史家太田直行氏は、民芸運動の萌芽期(昭和初期)に島根県の工芸の発展に尽力された方で、ぼてぼて茶について述べておられます。

ぼてぼて茶の由来
 神国出雲が独特の名物と誇る『ぼてぼて茶』は古くは桶茶と言い、砂鉄精煉のタタラ場や日本海に出漁する人々が、重労働に従事する時の簡易な保健食として専用したものです。しかるに享保の頃から国内に凶作がつづき、遂に藩の財政も破局に陥ったので、藩主松平不昧はこれを領民に普及して食糧対策の一つとしました。爾来桶茶は明治末期まで一般家庭の朝食となったのですが、桶茶は冷飯と簡単な副食物とで事足るので主婦達は大いに助かりました。しかもこれを服用すれば塩番茶の泡が食欲をそそり、且つたやすく満腹感が得られて胃腸が調整されるなど、当時の庶民には至極重宝がられたものです。
 しかし日清戦争後は一般の生活が向上して、桶茶もいつしか朝食から社交的あるいは嗜好的間食へと変わり、同時にたて方も抹茶形式に近似して『ぼてぼて茶』と改称されましたが、明治末期の山陰線開通を転機として急激に衰退し、一時は全く世人から忘れ去られました。たまたま昭和の初頃私が、地方工芸の振興(民芸運動)を志して、大都市の百貨店に展示即売会を催した時、余興に『ぼてぼて茶』の実演を行ったのが意外に好評を博しました。爾来県や市でも賓客接待の風変りな一手段としてこれを用いるようになり、いつしか出雲名物の一つと謳われて、文化映画などにも上映されるようになりました。

【島根のぼてぼて茶と、沖縄のブクブクー茶の関連・引用】
 沖縄調理師専門学校の安次富順子氏は、戦後途絶えていたブクブクー茶を研究の末に復興し、出版した書籍の中で、由来について述べておられます。

 徳之島では「桶茶」のことをフイチャとかブクといい、振茶との関係性?博多商人との関係性?偶然に誕生?など、諸説あるなかで、民芸運動を推進していた、島根県出身の陶芸家・河井寛次郎の言葉を引用しています。【琉球のブクブクー茶という桶茶が島根に伝わり「ぼてぼて茶」になった。南九州では桶のことをぼてと呼び、ぼて籠、張りボテなどがあるので、ぼてぼて茶もそこからきている。】