■VOL・119  琉球古典焼   
2007/2

暖冬 陶眞窯 ダチビン

広島県の瀬戸内海側は、温暖な気候ですが、
風炎窯のある安芸太田町は、山奥で降雪も多く、スキー場もあります。

されど今年は暖冬で雪が積もらない・・・
人工降雪機のあるコースだけがコジンマリと営業中・・・
昨年末に一回降ったきりで、2月になるというのに雪が全く積もりまへん!

寒いのは苦手ですので、嬉しいような、怖いような、複雑な心境・・・

風炎窯が誕生して、季節が16回巡りましたが、
こんな暖冬は始めてで、地球温暖化が始まったと実感しております。


振り向けば・・・

18才で陶芸の道に入りました「倉敷みなと窯」は、瀬戸内で温暖な気候・・・
23才で訪れた沖縄は、冬でも裸足+シマゾーリ+短パンで暮らした記憶がある。
(ただしそれは最初だけで、体が風土に順応すると、それなりに寒い。)

沖縄への陶芸修行の旅立ちは、若さと絶倫の賜物ですが、あの頃が懐かしい・・・



事前調査!

壷屋陶器組合に電話で問合せたところ、見習いの求人は無い・・・
もちろん親戚知人も無い・・・
あるのは、軽4輪のルーフキャリアにテンコモリの家財道具一式と、旅行ガイドと、小さな夢だけ・・・

鹿児島港からフェリーで26h・・・
遥か波間に、沖縄本島が見えた時は、海風に向かって武者奮いがいたしました。


現地調査!

亜熱帯気候は暖かく、トロピカルな異国のカホリ・・・
本島にある陶芸工房を見学・・・
見習いを受入れて頂くには、ある程度の経営規模と、売れる作品が必要・・・
迷う余裕もなく、捨身の飛込みで、読谷の「陶眞窯」に居候させて頂きました。

「赤絵」「線彫」「象嵌」「焼締」「唐草」「魚紋」「イッチン」・・・
技法が多彩であり、仕上げの荒い沖縄陶器の中では、丁寧な作品であり、
10人規模の窯場は、分業体制で活気に溢れておりました。


見習い!

主が横浜出身という事もあり、全国各地から集まった職人や、見習が働いておられ、
いくら倉敷での経験があったとしても、当然のように、徒弟身分は最下級となる。

当時、沖縄には粘土工場はなく、毎日が粘土作りの重労働と雑務であり、
10人分の昼食作りもあり、目の回るような忙しさ・・・

「登り窯」「穴窯」は、耐火レンガを殆ど使わない、粘土で固めたカマクラ構造・・・
窯作りも2回経験させて頂き、メンテナンスは日常的でありました。

工房では、技を横目で盗みまくり、アツカマシク、フテブテシイ態度でしたので、
周りから嫌われてしまい、貧給と身分は全く上がりませんでした。


サバイバルな暮らし!

米軍の2×4廃材と波トタンで作った飯場があり、
夜は、ブルーシートをカーテン代わりにして囲った、3畳程度のスペースで、暑苦しく眠る・・・
手作りの五右衛門風呂は、薪でしたので煙がコモリ、トイレも手作りでした。

建物は、風で飛ばないように、テントのように屋根ごとワイヤーで地面に固定してありましたが、
台風の度に、裏の斜面の赤土が崩れ、建物は傾いておりました。

新調した布団は「ネズミ」の巣となり、
亜熱帯の「蚊」や「カエル」や「ゴキブリ」は大きく、「毒ハブ」も出現!

便利過ぎる現代生活においては、貴重過ぎる経験でがんす!

一応、日曜は休みでしたので、
毎週のように、窯場や美術館や骨董屋や遺跡を見学したり、他の窯でアルバイトをしておりました。


3年でリストラ!

ノンビリした沖縄の風土でありながら、
内地的な商魂逞しい経営で、人の出入りが激しく、給料も身分も上がらない職場でしたが、
サバイバル&ボンビー&ハードな暮らしは、ブチクソ楽しかった。


う〜ん!

あの頃の気力&体力&絶倫には、もう戻れない・・・


琉球村 陶壁 民家

再就職・・・

恩納村の潰れたハブセンターを買収して、リニューアルしたのが「琉球村」で、
古民家を移築して、古の情景を再現した観光施設で、民間経営でした。

現在、この種のテーマパークは珍しくもありませんが、当時の沖縄では始めての試みで、
工芸体験を立ち上げる為の、スタッフ募集のお誘いが舞込みました。


その労働条件!

陶芸教室さえすれば、普段の作品は施設内で販売され、自由に作品が作れるとの事・・・
グループ展も、個展も、公募展への出品も自由・・・
必要な材料&設備は会社持ち・・・
サバイバルな生活から抜け出せる給料・・・

ガス窯・灯油窯・穴窯・自動制御電気窯・真空土練機・セラローラー・電動絵具摺りといった豪華設備・・・
グループ展・公募展で奨励賞ダブル受賞・広島で個展・・・
魚ぎょギョな陶壁製作・・・

好き勝手に作ったヘンテコ作品が、
窯出し後、ソク施設内の店頭に並び、ソク売上として、観光客の評価を受ける。


ブチクソ忙しい!

営業サイドでは、旅行社への涙が滲むような接待攻勢で、集客は増加・・・
教室は本土からの修学旅行が主で、クラスごとに民家を利用して、約300名×2〜3校程度をこなし・・・
絵付の湯呑みを、教室のあった日の夜中に自動制御の電気窯で焼いて、翌日に空港届け・・・
バスの到着時間がずれて、2校がバッティングした事もある・・・

工房のロクロの前にはガラス窓があり、その順路を、多い日は約2000人の観光客が通過・・・
動物園のサルのように、いつも誰かに見られている・・・
穴窯の中に隠れてサボル・・・


楽しい会社のお付合い!

サラリーマンの悲哀・朝礼・派閥・QCサークル・管理職が涙する地獄の社員研修・・・
週2回程度のアヤシイ夜のクラブ活動・・・
独身女性の多い社内環境・・・
地域住民が多く勤めておられましたので、沖縄の風土がリアル・・・

ズルズルと有難く、恵まれた職場に5年もお世話になりまして、
ズルズルと有難く、風炎カ〜サンの実家に居候しまして、
ズルズルと有難く、デキチャッタ結婚をして、広島へ帰る事になりました。



都合、8年間の沖縄での暮らしでしたが、
サバイバルな暮らし、観光施設の裏側、沖縄の豊かな風土を経験させて頂きました。

沖縄は現在、体験観光の施設も増え、個人でのクラフト体験も盛んで、若いクラフトマンも増加中とか・・・
「琉球村」は、工芸に加えて、エイサーや三線の芸能文化も体感できる施設として運営しておられます。

う〜ん!

今日まで、風炎窯が広島の地で、大した挫折も無く、順調に歩んでこれましたのも、
倉敷・沖縄での修行時代の恩恵と深く感謝いたしております。


金城次郎 琉球古典焼 魚紋

「金城次郎」

人間国宝として有名ですが、大胆無敵な作風でがんす!

火に弱い赤土ですので歪み易く、釉薬が掛かっていても、焼き締めに近い風合い・・・
歪み&底切れ&ヒビは大して気にしてないし、カタチも揃っていない・・・

裏のサインは子供が書いたような文字で、「次」
箱書きは無邪気に「マジック」で書かれておりましたが、国宝になられてからは「筆ペン」に変えたとの噂・・・
作家の地位は作品の値段で決まるのですが、アイマイに乱高下・・・


画像の作品は、国宝になられる前の工房で、その当時、2〜3000円で求めたものですが、
内地的に見ればB級品・・・

製作の途中で、工房の柱の角にでもブツケタ跡がそのまま残り凹んでいるし、焼け過ぎのブクがある・・・
質素な展示室に並んでいたので御座います。

ついでに、登り窯の草むらに放置してあった厨子甕(ジーシーガーミ)を、5000円で分けてもらいましたら、
口の欠けたダチビンを2個もサービスしてくださいました。


モンモンモン・・・

温帯に生息する、マジメ職人の匠の技では、計れない価値がある・・・
人それぞれに顔も性格も違うように、気候風土も、民俗のDNAも違う・・・
使い易いとか、丈夫とか、均一とか、技術とか、合理性では語れない・・・

これらの沖縄陶器に、自分なりの解釈を加えるには、1年以上かかった気がしますが、
どちらがイイとか、正しいとかの問題ではなく、ひとつのモノサシでは計れない価値があると悟る!

中国・東南アジアとの海洋交流が盛んであったチャンプルー文化と、
小さな事は気にしないテーゲー文化が産み出したのが、沖縄の独特な陶器の醍醐味だす!

う〜ん!

それが解ってからは、素直に世間がイロイロ見えてくるようになりました。



「琉球古典焼」

先日、工房に時々来られる沖縄カブレのお客様から、2冊の本が送られてきまして、
壷屋焼の禁断の扉が開かれてしも〜た!


琉球は、古くから海洋交易が盛んで、中国・東南アジアの陶磁器が輸入され、城跡からの出土品は多い・・・
1600年代初頭に薩摩より陶工を招へいしたのが、琉球陶器の始まりとされ、
1682年に各地の窯が統合・・・ 知花+湧田+宝口=壷屋焼となる。

釉薬の掛かった「上焼」と、焼締めの甕などの「荒焼」があり、地元の需要を支えておりました。

大正から昭和初期の大不況は、壷屋も例外ではなく、
瀬戸の量産磁器(スンカンマカイ)におされ、困窮していた。


こうした状況の中で、奈良橿原の黒田理平庵という骨董商が、沖縄に住みながらプロデューサーとなり、
当時、流行であったデカダン趣味の図案を考案し、新垣製陶所に発注し、製作指導をする。

彼の営業力と、時代の読みは素晴らしく、本土や海外に向けて販売が好調となり、
壷屋の窮地を救い、陶工に夢を与えたとか・・・

その作品群もまた難解でがんす!


モンモンモン・・・

「エジプト模様」「牡丹」「唐草」「魚紋」「鳥紋」「龍巻き」「獅子」「鳳凰」「パパイヤ&バナナ模様」
多種多様&カラフル&デコラティブでがんす!

中国の磁州窯を彷彿とさせる、黒釉の掻き落としや貼り付け・・・
ペンキや絵具による後彩色・・・
同じ作品が無い・・・
ある意味、芸術的であり、アヤシクもある。

いわゆる民芸理論とは対極であり、柳宗理から強烈に批判されましたが、
その図案は、現代の壷屋焼に大きな影響を与えたというよりも、ベースになっている。


その後・・・

壷屋焼は、民芸の窯場として一躍有名になりましたので、
琉球古典焼の約20年間の戦前の歴史は、民芸の影に隠れるように扉が閉ざされたのかもしれまへん!

沖縄は貧しかったので、古典焼の下請けで、陶工は子供の頃から手伝いをさせられたそうで、
金城次郎氏の魚紋の源流は、古典焼の図案にあります。

デザインとしていくら面白くても、
那覇の骨董屋で、ペンキの塗られた陶器を始めて見た時は、ショックでありました。

全国各地に散在していた古典焼を集めて、展示会が催されたのですが、
現代の壷屋の陶工にとっても、少なからずショックな展示会であったと聞いております。

民芸はひとつの考え方であり、
琉球古典焼は、その対極の芸術的なアヤシイ作品なのですが、ここにも人間の営みがあります。


う〜ん!

地域を再生するのはヨソ者であるという逸話が、壷屋にも存在していた訳ですが、
陶器組合は、今でも血縁がないと加入できないと聞いております。

広島に雪が降らなくなり、スキー場が消えても、風炎窯の作品はアヤシク残る・・・
ヨソ者のようでヨソ者でない、中途半端な陶芸家はいかに生きるべきか?

人は時代の落し子であり、次の時代の親である。


PS

そういえば、雪の降らない沖縄で、雪を見た。

全日空のリゾートホテルのオープンイベントで、陶器の販売をしたのですが、
札幌から雪が空輸され、10トンダンプで会場に運ばれ、降ろされる・・・
半融けの泥で汚れた雪にまみれ、ワラベンチャーが奇声を上げておりました。

大橋純子のミニコンサートがあり、シルエットロマンスを聞けたのはいいのですが・・・
アトラクションで大声大会があり、先輩の命令で窯元代表でワシが出場・・・
ステージに上がって、緊張して上がって、叫んでしまったのが、「給料上げろ〜」で、記録は140ホン・・・

優勝して時計を貰ったのですが、チトモ上がりまへんでした。






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