■VOL・97 岬めぐり 2004/8
風炎オヤジは、広島市を流れる、太田川の源流域に生まれ育ち・・・
地元の県立高校を卒業のち、陶芸修行の旅に出ました。
早い話が、家出でがんす!
倉敷・沖縄と12年の陶芸修行の後、現在は郷里に帰り、
工房を持ち、どうにか中途半端な陶芸家として生息しておりまする。
されど郷里も、先祖代々の土地ではなく・・・ 父親は鹿児島の漁村、母親は広島市内の出身でがんす!
知りはしまへんが・・・ 両親にも、それなりのラブストーリーがあったのでしょうね。
広島と鹿児島は、ブチ遠く、交通事情も悪く、幼少期に訪れた記憶も数回しかありませんが、
この度、鹿児島に縁があり、展示会を開きましたので、久し振りに訪れてみました。
野間池という小さな漁村で、鹿児島市内からも、車で2時間程の距離で、西の最果て、東シナ海に面しております。
険しいリアス式海岸には、サンゴも生息しており、流れの激しい海水は透明で美しい・・・
幼い日、グニャグニャ道を走るバスの車窓から見えたのは、まさに「岬めぐり」の風景・・・
直下に見えた残波の透明感は、とても印象深いものでした。
25才頃にも一度訪れておりますので、20年振りになる訳ですが・・・
変わっていたのは、風力発電のプロペラが10本立ち並び、リゾートホテルが建ち、観光道路が整備中であり、
気軽に、フィッシング、ダイビング、ホエールウオッチングが楽しめるという事です。
不思議なのですが・・・ この海域は、瀬戸内海や日本海で感じる、磯のカホリがウスラなのです。
塩分濃度が高く、潮流も速く、砂浜も少ないようですので、その影響なのでしょうか?
海水の透明感、美しさは相変わらずで、沖縄本島を上回っております。
もう、かなり前に・・・ 風炎オヤジのジ〜サンは、この小さな漁村で貧しい漁師の一生を終えました。
今では、実家は取り壊され、野ざらしの駐車場・・・
ジ〜サンの小舟を泊めていた、小石の浜は整備され、テトラポットとコンクリートでカチコチ・・・
立神岩のテッペンに生えていた松も枯れ、ハゲまくり・・・ 恵比寿を祭った神社もリニューアル・・・
風炎オヤジのバ〜サンが管理していた段々畑も、草ボウボウで、所在不明・・・
この地で、漁師のジ〜サンが死んで・・・ 足の悪かったバ〜サンが、神戸の娘に身を寄せて死んで・・・
風炎オヤジのオヤジが広島で死んで・・・ 早いもので10年以上になってしまいました。
過疎の漁村には、残った親戚縁者も殆ど無し!
風炎オヤジは今年で45歳になりまして、完璧な中年になってしまいましたが、
祖先の事に興味が沸くのも、歳のせいなのかもしれまへん!
幼い記憶なのですが・・・ 実家は粗末な仏壇で、近所の人が訪れますと、まず合掌! とにかく合掌!
信心深さが印象的でした。
この地方の定置網漁法は大掛かりで、漁師達の協力とルールで成立するしかありませんし、
度重なる、台風、天災、海難事故は、地域の絆が深くないと生きてゆけない環境であると、
今に思えるのでありまする。
どうせ大した家柄でもなく、土地もなく、資産もなく、ボンビー系でしかありえないと認識しておりましたが、
今回の旅を期に、ネット調査しますと、興味深い文献がチラホラ・・・
●HPはこちら
野間半島から、突如ソビエル野間岳は、海岸から一気に591mの標高となり、豊かな森に覆われております。
陽射しを浴びて森が育ち、海水も風に吹かれ雲になる・・・
森の栄養が雨に流され、海へと辿り、プランクトンやサンゴを育て、海草や小魚を育てる。
黒潮に乗り、餌を求め、カツオ、カンパチ、カジキ、クジラが集まり・・・
漁が栄え、人が食し、目に見えぬものに感謝して、神を奉る。
時は流れ、森羅万象、自然の輪廻に抱かれております。
古代より野間岳は、東シナ海を行き交う船の道しるべであり、頂上の神社には、航海安全の守護神が祭られており、
マソ神は、地元では「ローマ様」「ロバ様」と親しまれ、中国や台湾にも現存しているとか・・・
中国福建省に由来するらしいのですが、16〜7世紀に「林家」が、この地にもたらしたとの記述を発見!
このリンさん、海賊か? 倭寇か? 漁師か? 定かではありまへんが・・・
中国人であり、海での交易があったのは間違いありまへん!
明から清へと変わる時代の激流に流され、この地に夜逃げでもしたのでしょうか?
この地域に、林という苗字は決して多いわけでもありませんので、気になりまして野間岳に登ってみました。
落石も多い、険しい林道・・・ されど、素晴らしい展望と、爽やかな海風・・・
想像以上の立派な神社で、由来も書いてありましたが、西暦でありませんでしたので詳しく書けまへん。
古代には、朝鮮からの天皇の由来を記した神話もあり、尊が祭られていたとか・・・
テッペンにあったのが、数回、台風で飛んで、島津藩が、中腹の現地に移したとか・・・
石段は古風でしたが、現在の社はコンクリートで、鍵してありましたので、マソ神には逢えませんでした。
登山道もテッペンまであるらしいのですが、落石が多く断念!
火山岩らしい苔むした落石を一つ、車のトランクに積み、記念に持ち帰りました。
野間岳を下り、断崖絶壁のリアス式海岸を、南に走りますと、秋目浦と続き・・・
ここは、映画「天平の甍」で有名なった、唐の高僧、鑑真和尚が上陸した場所ですので、記念館もあります。
さらには、密貿易で栄えた久志浦には、唐人町も唐人墓もあり、
遣唐使船のオモチャを子供に引かせ、無病息災を祈る祭りもあるとか・・・
さらに坊津は、福岡の博多、三重の津に並ぶ、日本3津のひとつであり、
中国、朝鮮、琉球、南蛮、ポルトガルとの交易が盛んでありました。
現在この一帯は、寂れた漁村でしかありませんが、薩摩の財力を支えていた時代もあり、
江戸時代の鎖国でも、密貿易で栄えましたが、「享保の唐物くずれ」といわれる藩の弾圧で、一気に寂れたとか・・・
この地方の豪族にも「林」の記載があり、当時のこの一帯の財力は、日本で5本指に入るとかで、
薩摩藩の弾圧がなければ、財閥になりえたとか・・・
四国の今治や、大阪にも野間神社があり、倉庫業を営んでいたとの記述も発見しましたので、興味が尽きまへん!
坊津の裏路地には、石垣と石畳が残り、豪族の住居跡もありましたが、コジンマリ・・・
アヤシイ密貿易で儲けて、大御殿には住めないのも頷けます。
新しく落成したばかりの、歴史資料センター「輝津館」には、
中国、琉球、南蛮、ポルトガルとの交易品や、マソ像の展示があり、
薩摩屈指の寺院であった一乗院は、明治初年の廃仏稀釈で壊されたとかで、名残りのCG画像はシミル・・・
民具、漁具、祭りの展示、漁法の変遷の展示解説もありました。
今回、この地域の歴史をチト感じながら、「林」という祖先らしき名残りも発見した、ワゴン車の旅でしたが、
父親と訪れたであろう、幼い頃の心象風景の再認識の旅でもあった訳です。
現在、鹿児島には、立派な空港も、高速道路もあり、今年には新幹線も開通します。
されど、海を目指すしかなかった時代において、中国・朝鮮・琉球・南蛮の文化が、
海を渡り、潮流に乗って、風を受け、嵐と戦い、この地に漂着するしかなかった時代もあった訳です。
交易はある意味、文化交流でもあるのですが、
無線も、天気予報も、ラジオも、電話も、印刷技術も、インターネットもなかった時代・・・
荒海に命を掛けた人々の、冒険心と苦難には、ただ脱帽いたします。
風炎オヤジも、倉敷・沖縄と旅した訳で・・・ 多少のラブストーリーもあった訳で・・・
現在は、広島の太田川の源流域で生息中な訳で・・・
仕事柄、行商の旅もある訳で・・・ そのタイトルも「魚ぎょギョ陶芸展」な訳で・・・
ある意味、旅の途上でがんす!
これまで、自然災害も、病気も、事故も、チト経験しておりますが・・・ 大事には到っておりまへん!
されど、若き日の三叉路で、陶芸を辞めたいと思った事は数回ありますし、親子喧嘩も、夫婦喧嘩もある。
思うに・・・ ワシの祖先が、皇族や上級貴族と言っても、誰も信じまへんが、
バイタリティー溢れる海賊なら、ブチクソ似合い過ぎだす!
う〜ん!
野間岳が、東シナ海の道しるべであったように、
今回の岬めぐりの旅は、風炎オヤジのDNAへの道しるべなのかもしれまへん!
三叉路ばかりの荒海も、生きた証と思えば・・・ それもまた、人生・・・
ヨ〜ソロ〜
PS
平和なような現代ですが、平穏とは言えまへん!
先日、鹿児島10管区、奄美沖で、
海上保安庁の巡視船と、北朝鮮の工作船との、追跡銃撃戦が繰り広げられ、
逃げ場を失った工作船は、自沈しました。
その後、工作船は引き揚げられました。
内部に格納された上陸艇や、搭載された武器、無線機・・・
自沈前に、重要機密情報は海中に放棄されましたので、行方不明なのですが・・・
残された、たくさんの証拠物件が公開されました。
小型で、フロントシップのデカエンジンで、4スクリューで、逃げ足がブチ早いのですが、
最新の巡洋艦との銃撃戦は、歴史的事件であり、普段は地味な海上保安庁の快挙でもある。
拉致問題の進展に関与したのは間違いありまへん!
運命のイタズラ、曽我さん一家の、国境を越えたラブストーリーを見るにつけ・・・
平和でも、戦乱でも、人種が違っても・・・ 根底に流れる、祈りにも似た、真実の愛がシミル・・・
北朝鮮の暴走と、密航と、密輸を食い止め、拉致問題の一日も早い解決を願っております。
坊津海域は、拉致事件もあり・・・ 今でも、密航や覚醒剤取引も盛んとかで、アヤシイ海域ではある。
PS 2
野間池の風景はノドカで美しく、観光マリンレジャーも盛んだす!
笠沙恵比寿というリゾートに泊まり、魚料理を堪能・・・
カンパチは、ブリ程でもない適度な脂身で、ブチ美味しいと再認識しました。
神戸の老人施設で、ボケて死んだ、バ〜サンが言うには・・・
「素人の釣人の渡船を始めたのは、死んだジ〜サンが始めて。」
その当時にしては、企画実行力はあったみたいだす!
台風も多い土地柄ですので、海難事故も多い・・・
昭和22年のルース台風では、立神岩を呑込むほどの津波が、民家を押し流し、17名の行方不明。
遭難魚船の救助に出航した、消防団員の20名が殉職。
事実、風炎オヤジの父親は、当時の消防団員で生き残った、4名の内の1人・・・ 家も流されたとか・・・
実家のあった裏山に、夕日ヶ丘公園があり、東シナ海を望む高台に慰霊碑が建立されております。
夕日の赤がシミル、幼い日・・・
父親と手を合わせた記憶もあるのですが、その心中は如何なものか想像するしかありまへん。
う〜ん!
運命のイタズラとはいえ、死ぬも不幸・・・ また、生き残る不幸もあるのかもしれまへん!
改めて、合掌!
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