最後の職人


沖縄修行時代、特に始めの3年間は、休みの度に、あちこちの窯元を訪ねました。

壷屋焼は、釉薬の掛かった上焼きと、焼き締めの荒焼きに大別され、
壷屋焼きの産地は那覇市のほぼ中心部にあり、その頃もすでにビルの谷間にあり
殆んど火入れされる事の無い、
のぼり窯がありました。

その脇に、薄暗く大きな工房があり、黙々と作業を続ける
独りの職人の作業を見せて頂きました。
荒焼きの
ジーシーガーミハンドウーなどの大物専門の仕事でした。

風炎オヤジが大物を作る時は、紐つくりで、乾かしながら少しずつ積み上げていくのですが
その職人の仕事は、
別世界のものです。


地面を掘って低い位置に設置された2台の
足蹴ロクロの片方で、
腕にのった
ヘビの様な粘土で一気に半分まで積み上げ、中にグシャグシャの古新聞を
放り込み、
火を放ち、一気に乾かします。

片方でまた積み上げ・・・ また片方を口まで一気に積み上げ・・・
コテの角でラインをつけ、紐をかける為の耳をつけます。

そして又、片方と
交互に繰り返して、日に30本の大甕を作っていました。
かなり重いのですが、それを一人で運ぶのです。


ロクロがあれば、それなりの台や椅子があるのが当然ですが
片方のブロックに斜めに板を乗せただけで、積み上げの高さに合わせて
尻を移動しながらポジションを上げてゆきます。

体力的にかなり
キツイ仕事で、体を壊してリタイアする人が多いと聞きました。

そのうちの一人の方が、自宅に来るように誘われ、好意に甘えて紐つくりの特訓を受けました。
対面に座られ、顔をつき合わせての特訓! 
コワイ顔でした。
この方の作られる
シーサーがコレマタ、コワイ顔でした。


ハンドウー水瓶ですでに家庭での利用はありませんが、泡盛等で生き残っており、
ジーシーガーミは、厨子甕で、ミイラが入る為のもので、沖縄特有の大きな墓に入ります。

家型のもの、龍の巻いたもの等、独特の雰囲気が好きでした。
その頃はすでに、殆んどが
火葬に変わり、奄美や離島に少しの需要があるだけでした。

時代と共に消え行くものがあるんだなあ〜
あの時の職人さんは、恐らく
リタイアされていると思います。


ジーシーガーミ(倉敷民芸館蔵)

当時のオヤジは、工房住み込みで、2畳程の小さなホッタテ小屋でした。

米軍払い下げのツーバイフォー材を地面に打ち込み、壁は波トタンのみ、床は土!
靴を脱いで上がるロフト風ベッド、米軍払い下げのマット・・・
台風の度、
裏の斜面が崩れ、何となく傾いていたなあ〜

その小屋の
4分の1が、頂いたジーシーガーミに占領され、一緒に寝ておりました。

それを見た地元のパートのオバサンの
驚きの声

「ひえ〜林さん!これ何するものか解ってるの? ひえ〜墓から盗んできたの? ひえ〜」
「あきさみお〜」と、叫びながら、走り去ってゆきました!


ユタの棲む島、霊の話があふれた島で、怖い物知らずのオヤジでした。

その時の
ジーシーガーミは、大き過ぎて、引越しの時、沖縄の友人に預け、何処かに消えました。
逢いたいなあ〜




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